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第9回スケッチしナイト☆を開催しました!

 

2月15日(土)の18時から、スケッチしナイト☆を開催しました!

今回のお題は、関連4室「にぎやかな古墳のまつり」展示中の作品!

この部屋は、埴輪や石人(せきじん)などが展示してある部屋です。

みんな何を描いてくれるのか、楽しみです!

 

まずは、研究員の解説です。

研究員の解説

 

そして、出来上がった作品がこちら!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、これが今回の解説者、小嶋研究員の作品。

さすが、いつも見ているだけのことはあります。

 

次回もお楽しみに!

 

投稿者 | 989edu |
初詣を終えたら九博に行こう!
 あけましておめでとうございます!

 令和2年は、九州国立博物館が太宰府の地に誕生して、15年目となります。
 職員一同、これまで以上にがんばってまいります。

 さて、九州国立博物館は、元旦から5日(日)まで、朝9時半より夕方5時まで開館しております。

 とくに、3日(金)・4日(土)は夜間開館日となっており、夜8時まで開館しております(入館は7時半まで)。

 太宰府天満宮や坂本八幡宮に初詣にお越しのさいには、ぜひあわせてきゅーはくにお立ち寄りください。
 皆様のお越しをお待ちしております!

 そんなきゅーはくの新春の展示はどんなものかというと・・・

 まずはこちら、3階特別展室で開催中の、特別展「三国志」

 会期は1月5日(日)まで、あと残りわずかとなってしまいました。
 みなさま、もうほんとうに心残りはありませんか?
 もういちど、あれがみたい・・・なんて方も。
 えっ!?まだ行ってない・・・なんて方も。
 忘れずにきゅーはくにご来館くださいませ。


 続いて、4階文化交流展示室のご紹介。
 元旦より、毎年恒例のこの企画、新春特別公開「国宝 初音の調度」(こくほう はつねのちょうど)が、関連第11室で開催されます。

 以下は、展示を紹介するHPからの引用です。

 徳川美術館に所蔵される国宝「初音(はつね)の調度」は、徳川三代将軍家光(いえみつ)の長女である千代(ちよ)姫が、寛永16年(1639)、尾張徳川家二代光友(みつとも)に嫁(とつ)ぐ際に制作された婚礼調度(こんれいちょうど)です。
「初音」という名称は、この調度を飾る文様が、『源氏物語(げんじものがたり)』「初音」帖(じょう)に題材を得ていることに由来します。金銀を贅沢(ぜいたく)に使い、高度な蒔絵(まきえ)技術を尽くして制作された豪華な調度は、わが国の漆芸(しつげい)史上、白眉(はくび)として名高いものです。
 第9回目となる今回は、この国宝「初音の調度」のうち、乱箱(みだればこ)、長文箱(ながふばこ)、短冊箱(たんざくばこ)の3件を展示いたします。また、同じ『源氏物語』をモチーフとした絵画や、盛岡(もりおか)藩主南部(なんぶ)家ゆかりの婚礼調度も合わせてご紹介いたします。
新春を飾るにふさわしい華麗(かれい)なる婚礼調度。皆様どうぞゆっくりとお楽しみください。

 いかがですか?おめでたいお正月、目にも鮮やかなこの展示、ぜひご覧になってはいかがでしょうか?



 さらにおなじく元旦より、特集展示「刀剣(とうけん)ことはじめ−刀剣ワールド財団と九博の名刀−」も。
 こちらは関連9室での開催です。


 以下、おなじく、展示を紹介するHPからの引用ですが・・・

 国内有数の刀剣(とうけん)コレクションを所有する刀剣ワールド財団のご協力を得て、九博では5年ぶりに刀剣の特集展示を行ないます。
 今回は、刀剣ワールド財団の膨大(ぼうだい)なご所蔵品のなかから、特に優れた作品を中心に「九州初お目見え」となる名刀の数々を、これまで当館が収集してきた代表的な刀剣とともにご紹介します。
 人気の一方で、とかく「難しい」「近寄りがたい」と思われがちな刀剣の世界。
 今回の展示では、それぞれの作品の見どころや来歴(らいれき)などをご紹介するだけでなく、刀剣を取りまく独特な用語についても、分かりやすく解説いたします。
 美しく輝き、見る者を魅きつけてやまない刀剣の世界の奥深い魅力を是非お楽しみください。

 刀剣ファン垂涎(すいぜん)のこの企画、なんと展示品は全て撮影OK!!関連イベントも盛りだくさん!! ぜひ、九博にお越しください!



 令和2年も、九州国立博物館をよろしくお願いいたします!!
投稿者 | 989tenji |
関羽(かんう)に会いに行こう! どこへ? 九博4階(文化交流展示室)へ!!
 タイトルを見て、「えっ!? 4階? 3階の特別展「三国志」じゃなくて!?」と思ったあなた。
 ですよね〜。
 なにしろ、現在、九州国立博物館3階特別展室では「三国志」展が絶賛開催中ですから。

 特別展会場に入って、すぐに出会うのが、たくさんの関羽さん。
 「関羽像」(かんうぞう/青銅製)


関羽に謝る張飛(ちょうひ)(「関羽・張飛像」(かんう・ちょうひぞう/土製)より」)


関羽、兵書を読むの図(「関帝廟壁画」(かんていびょうへきが)より)


 銅像もあれば、土人形も。絵に描かれた関羽さんも。

 さらに、出口の近くには、横山光輝先生が描いた関羽さんも(「漫画 三国志 元画」より)。

 蜀(しょく)の劉備(りゅうび)に仕えた武将のなかでも、関羽は飛びぬけて人気のある武将でしょう。強く、学問にも秀で、主君である劉備に対する忠義を最後まで貫く(もちろん、「三国志演義」での脚色による部分もあるでしょうが)。人気の出ないわけがない。次第に、神様としてあがめられるようになっていきました。

 古くは唐代、関羽の武力にあやかろうと、8世紀ころに皇帝が関羽を武神の従者のひとりとして選び、まつったことがきっかけだったともいいます。北宋時代(11世紀ころ)には、関羽が呂蒙(りょもう)によって討ち取られた地「荊州」(けいしゅう)の関羽をまつる祠に対して、皇帝が名を贈りました。以後、歴代の中国王朝の皇帝が関羽におくり名(死後、生前の偉業をたたえて贈った名前)を贈呈し、その名もエスカレートしていきます。明(みん)の万暦(ばんれき)帝は「三界伏魔大帝神威遠鎮天尊関聖帝君」(!?)、清(しん)の道光(どうこう)帝は「忠義神武霊佑仁勇威顕関聖大帝」(!?!?)というおくり名をあたえ、競って関羽を持ち上げ、軍神としてあがめました。

 一方、関羽は商売の神様としても親しまれています。俗説ではそろばんや大福帳(だいふくちょう/商いで使った売り買いの帳簿)を開発したともいわれ、また忠義に篤い=約束をたがえないというイメージもあったのでしょう(商人にとって、約束をたがえないのはとても大事なこと)、中国、そしてアジアの中華街のあちこちに、「関帝廟」(かんていびょう)という関羽を祭る祠がたてられ、今でも神様として大事に祭られているのです。
(※一説によれば、関羽の出身地である解県(かいけん/現在の山西省内にある)が塩の名産地で、塩を売り歩いた山西商人たちが関羽を守り神として信仰していたのが各地に広まっていったとも。)

 もちろん、九州の代表的な中華街、長崎中華街ちかくの唐人屋敷(とうじんやしき)跡にも、関帝をまつる廟があります。

 ここでようやく、この記事のタイトルです。

 現在、九州国立博物館4階文化交流展示室では、「長崎の関帝信仰」(ながさきのかんていしんこう)と題して、長崎にある関羽像や関帝(関羽の神様としての呼び名のひとつ)信仰に関係するさまざまなものを展示しているんです。

 会場の関連第11室。入ると目の前に飛び込んでくるのがこちら。
「関帝像・関平像・周倉像」(かんていぞう・かんぺいぞう・しゅうそうぞう/長崎・興福寺(こうふくじ)蔵)

 長崎・興福寺につたわる関帝像(中央)。右には関平(実際に存在した関羽の息子で、正史「三国志」では実子とされているが、「三国志演義」ではなぜか養子となっている)が、左には周倉(三国志演義中の架空の人物で関羽の側近)が目にもまぶしいキラキラな姿で並び立ちます。

「関帝像」(長崎・聖福寺(しょうふくじ)蔵)

 おひげのりっぱな関帝さま。三国志演義などでは関羽さんは美髯公(びぜんこう)とも呼ばれ、ヒゲがりっぱなお像がたくさん作られたんだそうですよ。

 お像のほかに、絵に描かれた関帝さまもたくさん。

「雲中関帝像」(うんちゅうかんていぞう/長崎・聖福寺蔵)

 足元の雲が、神さまになった関帝さまを表しているようです。

「関帝像」(長崎・興福寺蔵)

 関平と周倉は、「三国志演義」での活躍により、しばしば関帝の随神として祭られます。色の白いのが関平、色の黒いのが周倉。


 さて、場所が変わって福岡市内にも、関帝さまをまつる寺院があるんです。
 その名にかつて住んでいた人たちの足跡を残す、福岡市中央区「唐人町」(とうじんまち)。その西側の早良区(さわらく)藤崎(ふじさき)にある千眼寺(せんがんじ)には、やはりキラキラな姿の関帝さまが。
「関帝像」(福岡・千眼寺蔵)


 このように、いま4階では、たくさんの神さまとなった関羽さんをみることができるんです。関羽ファンのそこのあなた、九博3階で開催中の特別展「三国志」にご来場の際には、忘れずに4階の関羽さんたちにも会いに来てくださいね!!

 なお、会場ではこのほか、現代に遺された中で世界最古のものといわれる三国志の写本、「三国志 呉志 第十二断簡」(さんごくし ごし だいじゅうにだんかん/個人蔵)や、長崎・聖福寺に伝わる関羽おみくじ「聖福寺関帝霊籤」(しょうふくじかんていれいせん)なども展示中です。

 「特別展「三国志」関連展示 長崎の関帝信仰」は、九州国立博物館4階文化交流展示室にて12月22日(日)まで開催中です。ぜひ、お立ち寄りください!!
投稿者 | 989tenji |
琉球のお墓!
「厨子甕(ずしがめ)(サンゴ石灰岩製)」(当館蔵)

これ、なんだと思います?

解説を読むと…骨壺(こつつぼ)ってかいてある!?


甕!? 壺!? どっち!? 
そして、いったいこれのどこが壺なの?と思われたあなた。
その疑問はごもっとも。壺や甕というよりは、家のような形をしています。

この疑問、展示を担当された原田文化財課長に直撃取材してみましょう!!

原田さん→

−原田さん、これ、いったいなんなんです?
(原田)これはですね…。「厨子甕」(ずしがめ/ジーシガーミ)といって、じつは、沖縄地域でむかし実際に使われていた、骨壺なんですよ。

−えっ!? でも、形はどう見ても壺には見えませんけど。
(原田)そうなんですよね。家に見えるでしょう?これ、「厨子」(ずし)なんです。

−厨子?厨子ってなんですか?
(原田)厨子というのは、広い意味では、ものを収納するための棚のことを指し、とくに仏教においては、舎利容器(しゃりようき/仏様の遺骨(いこつ)を入れるためのうつわ)や仏像、経典(きょうてん)など、大切なものを納めておくためにつくられた入れ物のことを指します。転じて、遺骨や位牌(いはい)などを納める入れ物の名前にもなりました。
 厨子はしばしば、屋根を持った建物の形でつくられました。有名なものとして、奈良の法隆寺に納められた「玉虫厨子(たまむしのずし)」がありますね。

−厨子甕という名前は?
(原田)沖縄・奄美諸島地域で17世紀頃に流行した、遺骨を納めるための入れ物(骨壺/こつつぼ)が、素焼きの容器で甕の形をしていたんです。それで「甕」の名がついたんでしょう。最初のころのものは木製の建物形だったようです。そのため、「厨子」と呼ばれていたんでしょう。合わせわざで「厨子甕」ですね。
 ちなみに、14世紀ころの琉球王家の墓には、木製、漆(うるし)塗りの厨子のほかに、中国産の石で作った立派な石厨子も置かれていたんですよ。

−へぇ…。それにしても、骨壺にしてはずいぶん大きいような気もしますけど。
(原田)それは、沖縄・奄美諸島地域の人々の死者をまつる習俗が(しゅうぞく)が関係しているんです。沖縄では、身近な人が亡くなると、なきがらをいちど人気(ひとけ)のないがけ下や洞窟などに運んで安置し、数年後に残された骨をきれいに洗って容器に入れてからお墓に納めました。その容器が、この厨子甕なんです。
 火葬にしないので、骨がしっかりと残りました。ときには、夫婦などをおなじ容器に葬ることもあったようです。そのため、大きな容器が必要になったんでしょうね。

−なるほど…! ようやくなぞが解けました!甕という名前のついた骨壺というわけですね!
(原田)ま、まあ…ごく簡単にいえばそうともいえますかね…?

−ところでこの厨子甕、サンゴでできているんですか?
(原田)そうなんです。サンゴでできた石を彫りこんだものです。最初のころ木製で作っていた厨子甕ですが、次第に石製のものが増えます。沖縄の島々には、地盤がサンゴ礁でできている場所も多いので、サンゴが石灰岩化した石を彫りこんだ厨子甕も見られるんですよ。
 もちろん、焼き物でつくった厨子甕もありますよ? やはり建物形をしているものもあれば、壺や甕などの容器の形をしているものもあり、そのすがたは多様なんです。

−へぇ〜…。 横には、葬式行列を描いたような絵がかざられてますね?

(原田)「琉球風俗絵巻(りゅうきゅうふうぞくえまき)」(当館蔵)ですね。明治時代に描かれたものではありますが、琉球王国時代の風俗をよくあらわしていて、当時の独自の文化を伝えていますね。
 この絵に描かれた葬式行列を見ると、死者に関係の近い親族が白装束を着ています(鉛を用いた白色のため、劣化して黒ずんでいますが…)。現代の葬式には黒い喪服を着ますが、昔は本州でも同じように喪主や配偶者は白い服を身につけていたそうです。

−その上に展示してある掛け軸はいったいなんなんですか?

(原田)琉球王国時代の墓地を描いた「墓所図(ぼしょず)」(東京国立博物館蔵)ですね。真ん中に描かれているのは、「亀甲墓」(かめこうばか/カーミナクーバカ)と呼ばれる独特な形のお墓です。もとは中国南部からつたわったお墓の形といわれています。屋根の部分が亀の甲羅に似ているのでこの名前になったんだそうです。
 このような独特の形のお墓も、もとは本州にも見られる横穴墓(よこあなぼ)から発達したそうで、天井のない「掘込墓」(ほりこみばか)へと移り変わり、掘込墓の奥側を亀の甲羅形にかざる亀甲墓ができたんだそうです。

−なるほど〜!!
 琉球の風俗が、日本や中国と共通の土台をもちながら、独自の発達を遂げていったことが、よくわかりますね。

ということで、琉球王国時代のお葬式に関する風俗がわかる厨子甕や絵巻などは、九州国立博物館4階文化交流展示室で展示中です。なお、展示期間は12月15日(日)まで。ぜひ、きゅーはくに遊びに来てね!

※九州国立博物館では、先日発生した首里城(しゅりじょう)の火災で焼失した建物の復原に資するため、皆様からの寄附を募っております。募金箱は1階総合案内所のカウンター上に設置しております。みなさまの御協力をお願い申し上げます。
投稿者 | 989tenji |
仮面をかぶった縄文人
 九州国立博物館4階文化交流展示室でいま、きみょうなお面が展示されています。


 これは、貝殻を加工したお面(貝製の仮面/熊本県黒橋貝塚出土、熊本県教育委員会蔵)。
 スミノエガキという牡蠣の貝殻を加工したものなんだって。


 これは、土を焼いてつくった土製のお面(土製の仮面/大阪府仏並遺跡出土、財団法人大阪府文化財センター蔵)。
 目や口のまわりが赤く塗られているんだよ。

 この仮面たち、いずれも縄文時代のもの。

 縄文時代の中期ごろ、九州の北側の地域や、それと海を挟んで向かい合う朝鮮半島の南側の地域で、貝殻を加工した仮面がつくられます。つかわれたのは、スミノエガキのほか、ホタテガイ、アワビの貝殻。そのほとんどは、目や口の部分に穴を開けたとってもシンプルな構造をしています。

 それに対し、縄文時代後期になると、西日本から東日本にかけての広い範囲で、土製の仮面が作られます。
 土製の仮面には、しばしば赤や黒の色が塗られたり、複雑な線が刻まれたりしています。これらは、縄文時代の人々が実際に顔に入れていたイレズミや、お祭りの際に特別な化粧をほどこした顔を模して作られていると考えられており、当時のひとびとの風習の一部をかいま見ることができます。

 そして、なかには土偶と同じような表現でつくられているものも。

 (画像は国立博物館所蔵品統合検索システム(ColBase)よりお借りしました)
 こちら、東京国立博物館が所蔵している「土面」(重要文化財です)。
 縄文時代晩期のもので、青森県で出土したものなんですが、同じ頃、東北では遮光器土偶と呼ばれる独特な顔の土偶が多くつくられていました。
これが遮光器土偶だ!

 くらべると、よく似てませんか?

 また、土偶の顔そのものが「仮面をかぶっているかのように」作られるものも。

 いま、当館でお面の横に展示しているこの「屈折像土偶」(伝青森県出土、当館蔵)。顔の部分がまったいら。お面をかぶっているように見えませんか?
 (youtubeのきゅーはくチャンネルもチェックしてね!)

 縄文時代の人たちがお祭りなどで使ったと考えられる、これらのお面や土偶たちには、九州国立博物館4階文化交流展示室で出会うことができます。なお、展示期間は12月22日(日)まで。ぜひ、きゅーはくに遊びに来てね!
投稿者 | 989tenji |
雪舟、明を描く−国々人物図巻(くにぐにじんぶつずかん)−
日本画の歴史の中で、欠かすことのできない画家の一人、雪舟(せっしゅう)
九州国立博物館4階文化交流展示室ではいま、雪舟に関係する展示がされているんですよ。

え?雪舟ってどんな人って?

雪舟というのはですねぇ、すごく有名な絵描きさんで… ネズミが… なんだっけ…

あっ! 畑さん!! ちょうどいいところに!
ちょっとこちらの方に雪舟のことを教えてやってくださいよ!
え? わたし? ホラ、わたしは専門がちがうので… よこで一緒に聞いてますから…
少しは協力してくださいって? もうしょうがないなあ。畑さんったらわがままなんだから!

ということで、雪舟について、当館の畑(はた)主任研究員にいろいろうかがってみましょう!
hata.png日本画・東洋絵画が専門の畑主任研究員。
―雪舟って、いつの時代の人なんですか?
(畑) 室町時代です。生没年は諸説ありますが、生まれたのが応永27年(1420)、亡くなったのは永正3年(1506)とも言われています。

―雪舟が有名な画家っていうのは知ってるんですが、どんな絵を描いた人なんでしょうか?
(畑) 水墨画です。よく知られるのは風景を描いた山水画ですが、人物画も知られます。伝雪舟作とされる中には花鳥画なども見られますが、その多くは弟子などの手によるものといわれています。国宝に最も多く指定されている画家としても知られていますね。

―国宝に!?いったいどのくらい?
(畑) 6点です。そのほか、重要文化財に指定されている絵も確実なもので13点、雪舟の別表記ともされる「拙宗」(せっしゅう/せっそう)名義の作品が3点重文に指定されていますし、先ほどお話した、弟子の作品ではないかといわれているものも3点が重文に指定されています。

―そんなに!?雪舟っていう人は、とってもたくさん絵をかいてるんですね…
(畑) いやいや、まったくそんなことはないんですよ。実際に雪舟の作だとされている絵は、じつはそれほど多いわけではないんです。今から600年も前に描かれたものですし、失われたものもあるでしょう。
 「雪舟作」といわれるものが多く感じられるのには、いくつかの事情が反映していると考えられます。とくに、後の時代の画家たち、とくに江戸時代の狩野派(かのうは)の絵師たちが雪舟の絵をひとつの理想の形として評価してこれを模写したり、狩野派の絵師たちを抱える大名たちが競って雪舟作といわれる絵画を求めたりしたため、偽物が多く出回るようになったということはあると思います。それで、もっとも贋作(がんさく)の多い日本画家などといわれるようになってしまいました(笑)。

―あぁ…。それで、某テレビ番組なんかで雪舟の絵だというのが持ち込まれると、ほとんどニセモノだということになってるんですね…。
(畑) ハハハ…(^^;) さらに雪舟は、庭園をつくった人としても知られています。現在、雪舟が作庭したといわれる庭園は、国が名勝に指定しているものだけで5件あります。ただ、こちらは絵とは違って、本人のものであることを示す印鑑や署名があるわけではなく、絵のように筆遣いなどを研究することで雪舟作であると判断することもできませんから、あくまで「伝承」として、雪舟が作ったといわれているいうむずかしさはありますが。ただ、なかには雪舟のパトロンとなった戦国大名の大内氏(おおうちし)が作らせたと伝わるものもありますし、それなりに信ぴょう性は高いのかもしれませんね。

―はぁー…。雪舟というのは、才能のかたまりみたいな人だったんですね。
(畑) 小さいころから、画才にはとびぬけたものがあったというエピソードとして、有名な「涙で描いたネズミの絵」の逸話がありますよね。お寺で小坊主として勤めていた幼い雪舟が、絵ばかり描いて修行しようとしないので、罰として仏堂の柱に縛り付けたところ、自分の涙を使って足の指で床にネズミの絵をかいていて、その絵が雪舟の様子を見に来たお坊さんが本物のネズミと見間違えるほどよくできていたというお話。まあこれは、のちの時代につくられたエピソードだという説もあるそうですが。

―それですよ!ネズミ!やっぱりな…(ちょっと自慢気)。
(畑) ネズミの話はともかく(―あれ?)、雪舟が幼い頃から画才にあふれていたことは確かなようで、わずか10歳にして、京都の相国寺(しょうこくじ)に移り、禅と水墨画の修行をすることになります。相国寺は、室町幕府3代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)が建立した京都の寺院で、室町文化の一大拠点でした。

―ああ、このあいだまで3階で開催していた特別展「室町将軍」はすごかったですねぇ。ちなみに、いまは「三国志」ですよ!みなさん、よろしくね!!
(畑) ん?誰に話してるのかな…? それはそうと、雪舟は相国寺で、すでに足利将軍家から俸禄(ほうろく/お給料のこと)をもらうほどの有名画家として知られていた天章周文(てんしょうしゅうぶん)に、水墨画を学びました。そして30代中ごろより、中国地方の戦国大名であった大内氏の庇護をうけます。

―ああ、それで庭をつくった話にもつながってくるんですね?
(畑) まあ、それもそうなんですけど。むしろ大内氏に庇護されたことは、雪舟のその後の画業にとっても大きな影響を与えたんです。

―ほうほう、それはいったい…?
(畑) 大内氏は1440年頃より筑前守護となり、衰退しつつあった室町幕府から明(みん)との間で行われていた勘合貿易(かんごうぼうえき)の権限の一部を買い取り、博多商人と手を結んで明との交易をおこなっていました。雪舟は48歳のときに、大内氏による遣明船(けんみんせん)に乗って明へと渡航し、そこで中国の水墨画を習得します。2年間にわたる修行の中で、雪舟は最先端の中国画よりもむしろひと時代前の宋(そう)・元(げん)時代の水墨画に興味を持ち、多くの模写を行ったそうです。

―なるほど。室町将軍展でも、将軍たちは最先端よりむしろひと時代前の宋・元画を珍重したということでしたけど、雪舟もそれと同じなんですね。
(畑) 当時の日本の美意識なんでしょうね。また雪舟は、大陸の人びとや街角の風景、雄大な大自然などに強い興味を抱き、街を出歩いて出会った人々や光景を絵に残し、あるいは揚子江(ようすこう)を船で下りながらあたりの風景を写生しました。

揚子江を下りながら船から見える風景を描いた『唐土勝景図巻』(とうどしょうけいずかん/京都国立博物館蔵)。
(画像は京都国立博物館データベースより引用、こちらもつい先日まで当館で展示していました)

 いま、4階で展示されている『国々人物図巻』(くにぐにじんぶつずかん)も、雪舟が北京で出会った人々を描いたものですが、当時の北京がいかに国際色豊かな都市だったかが分かります。雪舟も大いに刺激を受けたことでしょう。ぜひ、雪舟の絵をお楽しみください!

―畑さん、ありがとうございました!!

 というわけで、雪舟が中国で出会った風物を描いた絵のひとつ『国々人物図巻』(くにぐにじんぶつずかん)(京都国立博物館蔵)は、九州国立博物館4階文化交流展示室にて12月1日(日)までお楽しみいただけます。是非ご来館ください!

 また、雪舟の絵が見られる特別展「雪舟の仏画」が、11月2日(土)から12月8日(日)まで山口県立美術館で開催されます。
 →(ポスターはこちらから)
 こちらもぜひ足をお運びください。

また、4階文化交流展示室は、特別展のチケットでもご覧になれます。特別展「三国志」をご覧になった際には、4階も合わせてご観覧ください!
投稿者 | 989tenji |
対馬の遺宝たち―伝世した青磁―
玄界灘に浮かぶ対馬
古くより対馬は、朝鮮半島から日本列島へと流入する人やモノの窓口としての役割を担ってきました。
弥生時代末頃の対馬の姿を、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は次のように描写しています。

「始度一海千餘里、至對馬國、(中略)、所居絶㠀、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸。無良田、食海物自活、乗船南北市糴。」

「始めて一海を度(わた)る千余里、対馬国に至る。(中略)居る所絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(みち)の如し。千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す。」

対馬の人々が古来より朝鮮半島と日本列島とのあいだで船に乗り、物々交換しながら米(主食)やそのほかさまざまなものを運んでいたことを示す名文でしょう。

きゅーはく4階文化交流展室では、第4テーマ「アジアの海は日々これ交易」(12〜16世紀、中世)において、対馬を介した列島と大陸との交流の歴史を紹介しています。

中世、鎌倉時代。モンゴル軍による侵略(元寇/げんこう)という悲劇から立ち直った対馬は、列島と大陸との交易により隆盛期を迎えます。中国から朝鮮半島の西海岸を伝って日本列島にいたる貿易船は、対馬や壱岐を中継地としました。これにより、対馬には多くの中国・朝鮮半島産の文物がもたらされることになったのです。


青磁牡丹唐草文花瓶/せいじぼたんからくさもんかびん(多久頭魂神社(たくずだまじんじゃ)蔵)

この大型の壺は、中国・龍泉窯(りゅうせんよう)で14世紀ごろに焼かれたと推測される花瓶です。その端正な器形と外面に大ぶりの牡丹(ぼたん)の花が浮き出る技巧に目を奪われる逸品です。



青磁透彫龍文墩/せいじすかしぼりりゅうもんとん(多久頭魂神社蔵)

こちらは朝鮮半島産のいわゆる高麗青磁(こうらいせいじ)の腰掛け(椅子)です。龍を透かし彫りにして表現した細やかな技法が秀逸な逸品。

こうした中国産・朝鮮半島産の青磁は、室町・鎌倉時代に多く日本列島に運ばれ、寺院などにしばしば伝世しています。なかでも高麗青磁はとても珍しく、その分布は博多や鎌倉、京都など、当時の政治の中心地や、豊かな財力を持つ商人や寺院などが活躍していた都市にほぼ限られます。
対馬の社寺がこのような貴重な交易品を多く持っている背景には、交易の中継地として対馬を訪れた商人たちが奉納品などとしてこれらを納めたことなどが考えられ、当時の対馬の賑わいをほうふつとさせます。



遺跡から出土した朝鮮半島産陶磁器の破片

いっぽう、対馬島内の遺跡からはしばしば、朝鮮半島産陶磁器の破片も出土します。青磁の優品だけではなく、日常雑器に分類されるような無釉陶器など、さまざまな陶磁器の破片が多く出土しており、土器そのものというよりはその中身を運ぶための容器として、または半島から対馬にわたってきた人たちが日常的に用いるためとして対馬に持ち込まれたとも考えられています。
こうした状況から、朝鮮半島との交流は、単なる海上輸送の中継地というだけではなく、島民の生活により密接な形でおこなわれたとみられます。このように、対馬を舞台とした対外交流は、さまざまな形で繰り広げられていたと考えられるのです。


対馬と大陸、とくに朝鮮半島との交流を示すこれらの展示品は、九州国立博物館4階文化交流展示室にて12月22日までお楽しみいただけます。
投稿者 | 989tenji |
遣唐使に感謝!

みなさん、こんにちは!

 今回は、「遣唐使船(けんとうしせん)」を復元した展示室をご紹介します。

「遣唐使――教科書で習ったような気がするなぁ。」

と思った方が多いと思いますが、「遣隋使」「遣唐使」の事は、小学校から高校の教科書にも載っています。

 

 今から約1100〜1400年ほど昔、日本では飛鳥〜奈良時代だった頃、中国は「唐」というとても大きな国でした。当時の日本はその唐と交流をしていて、『した使を「遣唐使」と呼んでいるのです。ちなみに、中国が「隋」だった頃に、聖徳太子が使者を派遣したのが「遣隋使」です。小野妹子が有名ですね。

 さて、使者を送るといっても、みなさんご存知のとおり、日本は周りを海で囲まれています。ちょっとお隣の国に行こうと思っても、この広大な海を越えて行かないといけません。ということは、もちろんが必要になります。この船が「遣唐使船」です。

 こんなイメージです。(「きゅーはくの絵本「もろこしのたからもの」に載ってます)

 当時の船は木造で、もちろんエンジンもありません。帆を張って風を受け、風がない時は数十人の漕ぎ手が櫂をこいでを進めます。GPSや電子地図なんてあるはずもないので、大海原の真ん中では進む方角も怪しいし、嵐にあえば船も壊れ、海に投げ出され、遭難して、運が悪ければ死んでしまう。。。

 遣唐使を乗せた船も、そんな風に遭難することがあったようです。人や荷物も沈んでしまったり、まったく別の土地に漂着した末に難儀して帰国したりと、苦労した記録が残っています。有名な最澄や空海、阿倍仲麻呂も遣唐使として海を渡っていますが、彼らも生きて帰ることができるかどうかわからない危険の中、命がけで唐へ渡り、そして無事に戻ってきたのです。(仮病を使って、渡航拒否した人もいたとか!)

(「きゅーはくの絵本「もろこしのたからもの」から)

 こんなに大変なの旅なのに、なぜ唐に行かないといけなかったの?

 実は当時の朝廷は、法律や行政の仕組みを整えて国内を統一をしたいと考えていました。そのお手本にしようとしたのが、近くにある「唐」という大きな国のシステムだったです。また、当時の日本が必要としていた新しい技術、仏教の教えや経典、世界情勢の情報など、唐で手に入れることができたのです。

 でも、唐は大国、しかも自国以外はすべて「蛮族」と考えていたため、対等な関係での交易は望めません。このため、格下の日本が唐に対して貢ぎ物をする「朝貢(ちょうこう)」という形をとって、数年に一度ご機嫌伺いに遣唐使を派遣していました。

 こうして遣唐使船は遣唐使達を乗せ、貢物としての国内の貴重な品々を乗せて海を渡り、唐の都を目指します。そして無事たどり着き、皇帝に貢物を差し上げると、「遠路はるばる、よく貢物をもってきた。ご苦労だった!」とから皇帝からお返しの宝物をもらえたのです。

 

(「きゅーはくの絵本「もろこしのたからもの」から)

 かの有名な奈良の「正倉院」に伝えられてきた宝物、ここにもお返しにもらったものの一部が残されています。

 唐のみならず各国から集まった素晴らしい宝物、最先端の政治システム、様々な新しい技術、仏教の教えや経典etc..これらを手に入れるために、危険を冒して遣唐使たちは海を渡ったのです。

 

 では遣唐使船はどんなものを積んで行き、そしてどんなものをもらって帰ってきたのでしょう?

 その一部を復元したのが、第8室の遣唐使船を復元した展示室です。

船の後ろ側 真ん中の網代帆 船の先端側

 中央の写真が船の中央の網代(あじろ 竹で編んだ繊維)で作った帆です。船の内部には唐櫃などが所狭しと並んでいます。網代帆より船の先端側(写真右)に唐へ持っていった貢物、後ろ側(写真左)にお返しにもらった宝物の一部を復元しています。

 

では、どのようなものが運ばれたのか、その中身を見てみましょう。

持って行ったものはどんなものなのか。。。

平安時代の記録を参考にすると

真綿(まわた)・絁(あしぎぬ:布)などの

シルク素材や製品

真珠(しんじゅ)・瑪瑙(めのう)・琥珀(こはく)などの装飾用品


水晶(すいしょう)・出火鉄(しゅっかてつ:火を起こす道具として使用)

コシアブラの樹液(武器のサビ止め)・甘葛汁(あまづらのしる:甘味料)・椿油


 

砂金(さきん:貨幣の代わり)・銀製の和同開珎(わどうかいちん)

といった、当時の日本の特産品です。日本各地から税として納められた品々のうち、珍しいものや価値の高いものが運ばれました。

 今の日本だと、「えっ!」と驚くような高価なものも含まれていますが、現代より豊富に産出されていたようです。

 

ではお返しにもらったのはどんなものなのか。。。

 正倉院に伝えられた宝物を参考にすると

白瑠璃(はくるり)の碗(わん)などのガラス製の器

唐三彩(とうさんさい)の壺・唐三彩の陶枕(とうちん:枕)
鴛鴦(おしどり)唐草文の錦(にしき)

白銅製海獣葡萄鏡(はくどうせいかいじゅうぶどうきょう:白銀色に輝く鏡)

白檀(びゃくだん)・丁香(ちょうこう)などのお香 大黄(だいおう)・桂皮(けいひ)などの薬

といったものがありました。

 唐の特産品はもちろん、ペルシャなど遥か遠くシルクロードを通ってきた貴重な品々もあります。これはほんの一部ですが、とてもロマンが感じられますよね。

 「遣唐使」という人々の努力と苦労によって、当時の日本では手に入らなかった貴重な文物が日本にもたらされ、今に伝わって私たちも目にすることができるのです。もう遣唐使の方々に感謝しかありません!

 

 このようにして遣唐使や遣唐使船を介して行きかった貴重な文物たち、復元品ではありますがご覧いただくことができます。展示室で船内の雰囲気と共に体感していただければと思います。また、実際に触ったり香りをかいだりできるハンズオンコーナーもあります!

 

 さらに同じ第8室には、シルクロードの国々の作品もたくさん展示しています。そちらも是非ご覧いただき、あわせて遣唐使の見た風景や夢、そして苦労に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

 

投稿者 | 989tenji |
更紗、さらさら。

ちょっと紹介が遅くなりましたが…7月30日(火)より九博所蔵・更紗(さらさ)の特集展示が始まっています!

 

更紗とは模様染め木綿布の総称で、古くから世界中の人びとをとりこにしてきた、それはそれは美しい布です。

 

 

「さらさ」って、不思議な音の響きですよねぇ。 声に出してつぶやいてみたら、

川のせせらぎのようなさわやかさをもって、耳にふわっとやわらかな音が届きます♪

なんだか、すてきな異国のおまじないの言葉みたい。

 

 

でも日本では、安土桃山時代から江戸時代初期ごろにはすでに「更紗」や「皿紗」などの漢字が当てられて使われていた、歴史ある言葉でもあります。

この不思議な響きの背景には、エキゾチックな由来あり。諸説ありますが、「さらさ」は元々インドの地方語に由来する言葉だったとか。

よく言われているのが、インドの地方語に極上の綿布を指す言葉「sarasso」という言葉があって、そこから転じて「さらさ」になったということ。

 

でも、明確には断定されていません。他にも、更紗の語源候補の言葉がたくさんあるのです。

たとえば、グジャラート語のsarasaには「素晴らしい」という意味が、サンスクリット語のsarasaには「魅力のある」「新鮮な」という意味があります。

また、インドの港町の名前に由来するという説も。

 

ほかにも、ヒンディー語にはsarasaraという言葉があって、その意味は「さらさら」とか「しゃらしゃら」という擬音語だとか!

日本語とちょっと言葉のセンスが似てますよねぇ。

 

 

更紗の魅力のひとつに「さらさら」とした手触りの木綿が使われていることが挙げられます。

 

更紗はもともと、古くからインドで作られていた木綿染めにはじまります。

昔は木綿の生産が限定的で、珍しいものでした。(日本でも17世紀に入ってようやく広まりました)

 

やわらかで吸湿性にすぐれ、そして丈夫でめずらしい木綿は、人々にとって非常に魅力的な素材でした。

ただ、残念なことに、木綿は染料との相性が悪く、鮮やかな色に染めることがとっても難しいのです…

 

 

そんななか、大航海時代の波に乗って世界に紹介されたのがインド産の更紗でした。

 

インド更紗の特徴は、鮮烈な赤!!

 

「どうしてこんなに鮮やかな赤が染められたの…!?」

と驚かされた世界中の人々は、更紗に興味津々。

そうして主要な貿易商品になった更紗は、オランダ東インド会社などの貿易会社によって、インドネシアやタイ、日本、中東、ヨーロッパなどなどに届けられました。

 

インドネシアの山間民族(スラウェシ島のトラジャ族)の間では儀礼用の布に…

 

日本では、ファッションリーダーたちが更紗を小袖(江戸時代のきもの)や、茶道具に…

 

タイでは王族の衣装に…

 

ヨーロッパではベッドカバーなどの室内装飾…

だけでなく、17世紀末のファッション界にも革新をもたらしました。

フランス貴族がこぞってドレスに仕立てたんですって〜。

 

 

こうやって写真を見ると、それぞれの好みを反映した作りになっていますねぇ。

 

このように、世界に旅だった更紗は、それぞれの国で新しい染色技法を生み出すきっかけにもなりました。

 

その詳細は…ぜひ展示会場で!!

図録も好評販売中で〜す!

 

九博ミュージアムショップ・オンラインストアはこちら

↓↓↓

https://kyuhaku-museum.shop/shopdetail/000000000085/

 

特集展示「館蔵名品展 更紗 生命の花咲く布」

会  期:令和元年7月30日(火)〜10月20日(日)

     *9月10日(火)に全作品展示替えを行います

展示場所:九州国立博物館4階 文化交流展示室 第9室

投稿者 | 989tenji |
手話と仏像 〜仏像の手に秘められた物語〜

当館では開館以来、手話通訳ボランティアが活動していることをご存知でしょうか?

現在手話部会として、22名が在籍しています。

ある時、聴覚に障がいを持つ方から、声があがりました。

「私たちも、博物館で専門的な解説が聞きたいです。手話通訳をつけてもらえませんか?」

手話通訳を必要とする方に解説を楽しんでいただくとともに、ボランティアの活躍の場がさらに広がってほしい・・・。そんな思いから、5月28日(火)のミュージアム・トーク(当館研究員による解説)に、初めて手話通訳をつける試みを行いました。

 

テーマは「手話と仏像」!!

 

手話は「手」の動きを使う表現方法ですが、仏像も同じく「手」を使って仏教の教えを伝えています。そこでボランティアのみなさんは、大澤研究員より、仏教の成り立ちや、仏像の「手」の意味を学ぶことからはじめました。

「悟(さと)り」って、手話ではどう表現するの?

「教え」と「説法」は、どう違うの?

分かりやすく伝えるために、展示室で実物の作品を見ながら手話表現を一つ一つ確認し合い、本番まで何度も勉強会を重ねました。

      展示室で仏像の「手」について、熱心に勉強するボランティアのみなさん

ここから、当日のミュージアム・トークを少しご紹介しましょう。

仏教は、約2500年前に、インドの釈迦族の王子であるゴータマ・シッダールタという、「ブッダ」や「お釈迦様」という名前で呼ばれる方が開いた教えです。

お釈迦様は、お弟子さんたちに大変恵まれ、そのお弟子さんたちはお釈迦様の教えを体系化し、また組織化して「教団」を形成しました。そして、教えをより多くの人にわかりやすく伝えるため、教えの内容やお釈迦様の人生を「絵」で示すことにしたのです。石にそのストーリーを刻み、お釈迦様の遺骨をまつる「ストゥーパ」とよばれる仏塔の階段や囲いにあらわしました。

ただし、お釈迦様を人の姿としてあらわすことはタブーとされていたため、当初は傘・法輪・足あと・菩提樹など、お釈迦様を象徴するモチーフでその姿を表現しました。

その後、お釈迦様が亡くなってから約500年後、今から約2000年前に人の姿をした仏像があらわれました。

この両手の人差し指を天地に向けるポーズは、お釈迦様を意味していますが、それはなぜだと思いますか?

実は、これはお釈迦様が生まれた時のポーズなのです。

お釈迦様の母親・摩耶夫人(まやぶにん)は、ある日白い象がお腹に宿る夢を見ました。その10か月後、お産のため実家に帰る途中、ルンビニー園という場所で産気づき、木の枝に手を伸ばした時に右脇からお釈迦様が生まれました。お釈迦様は7歩歩いて両手で天地を指し、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」、つまり「この世界で私が最もすぐれている」と言ったと伝えられています。この時のポーズが、お釈迦様をあらわす由来となりました。

 

つづいてもう一つ、仏像の「手」の意味をご紹介します。

「釈迦菩薩立像」の「施無畏印(せむいいん)」を見てみましょう。

このように手を挙げて(※拡大画像)、てのひらを正面に向けるこのポーズには「おそれをとりのぞく」という意味があり、これには秘められたストーリーがあるのです。

         

左:釈迦菩薩立像 パキスタン ガンダーラ 2〜3世紀 九州国立博物館 / 右:大画像

教団の中に裏切り者が出て、お釈迦様を暗殺しようと、暴れた象を突進させました。ところがお釈迦様が右手をあげると、象はたちまちおとなしくなり、お釈迦様にひれ伏したといいます。この時のポーズが、施無畏印のもとといわれています。

このように、仏像の「手」の形の意味や、秘められたストーリーを知ると、見方も変わって面白いですよね!

ミュージアム・トーク当日は、75名のお客様にお越しいただき、遠方はなんと名古屋からの聴覚障がい者のご家族も!大澤研究員の解説に合わせて、お客様も一緒になって仏像と同じ「手」のポーズを取りながら、楽しんでいました。「手話通訳のおかげで、仏教についてくわしい解説が楽しめました」「手話と仏像の手をテーマにしたのが良かったです」「もっと手話通訳が増えるといいですね」といった声もあがりました。

さて、聴覚障がい者にとって、楽しめる博物館とはどのような博物館でしょうか?

欧米の博物館では、手話通訳つき解説や、聴覚障がい者自身が手話で語るプログラムが一般化している中、日本ではそうした機会がとても少ないのが現状です。

また、博物館の展示は目で見る情報が多いため、聴覚障がい者にとっては「文字の解説があるから、不便ではないだろう」と思われがちです。

しかし実際には、映像コーナーや音声ガイドが楽しめないなど、様々な課題もあります。

専門用語が多い博物館の解説を手話でわかりやすく伝えることや、文化財保護のために照明を落としている展示室で、作品と手話通訳者のどちらも見えるようにするなど、誰もが楽しめるための展示やプログラムだけではなく、その環境も改善して工夫していくことも、これからの課題になりました。

        仏像の「手」にさわれる、ハンズオンコーナーは大盛況!

次回の手話通訳付きミュージアム・トークは9月28日(土)18:00〜、 タイトルは「更紗(さらさ)に触ろう!」。大航海時代以降、世界を席巻した美しい布、更紗の実物を触りながら、ぜひお楽しみ下さい。

事前申込不要です。4階文化交流展示室第9室で、お待ちしています!

文化交流展 館蔵名品展「更紗 生命の花咲く布」 https://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_pre158.html

ミュージアム・トーク(展示解説)情報 https://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_info_m.html

投稿者 | 989tenji |
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